昭和12年2月、山口組若衆・田岡一雄は、二代目・山口登に反抗した大長八郎を斬って、八年の刑を宣告され京都刑務所に服した。昭和15年7月、山口登は、興業のもつれから、東京浅草で下関の荒政組関東支部の謀略にかかり、瀕死の傷を負って入院、かけつけた舎弟分の古川松太郎らに「田岡を三代目に」と言い残して息をひきとった。昭和18年、皇紀2600年の恩赦により、田岡は出所した。公民権のない田岡には兵隊に行く資格がなく、人には言い知れぬ淋しさを紛らわす為連日賭場に足を運んだ。田岡は道で嫌がらせを受けている女浪曲師・天遊軒清月を助けたことが縁で清月の舞台を見に行ったが、その興業が地元・山口組に挑戦するがごとく、荒政組の主催であったため、双方の対立は一段と激しくなった。20年8月15日終戦による混乱に乗じて、不良達が集団テロ、略奪を始めた。田岡は山口組自衛団を結成してこれと対立した・・・。