弘化3年(1846)イギリス艦船が薩摩に来航しますが、薩摩藩主の嫡男・島津斉彬はペリー来航より7年前に海外に眼を向けていました。彼は同志の老中・阿部正弘から異国船対策を任され国に帰ります。当時、島津家では跡目を巡って、斉彬派と弟の久光派の対立が続いていました。藩士である西郷吉之助(後の隆盛)、大久保正助(後の一蔵、利通)などは斉彬派でした。国もとの不穏な動きを知り、斉彬は賭けに出ます。[TAIG](C)NHK
嘉永4年(1851)春、島津斉彬が薩摩藩第28代藩主としてお国入りしました。斉彬は家臣から広く意見を求め、人づくり国づくりを積極的に推し進めます。そのころ西郷吉之助の縁談が持ち上がりますが、まとまりません。大久保正助が一計を案じ、吉之助は身を固めます。斉彬は志ある若者を江戸に留学させるなど、薩摩の若者に希望と活力を与えました。吉之助と正助も名君に尽くすことを誓い合い、江戸行きの夢を語り合います。[TAIG](C)NHK
吉之助の結婚で明るい年を迎えた西郷家ですが、新妻・俊は家になじめず、吉之助は江戸行きの思いを言い出せません。斉彬は異国船対策を決めかねる幕府内の現状を憂い、幕政工作のため島津一門の姫君・敬子(すみこ・後の篤姫)を養女にしました。そんな折、西郷家では祖父、父、母が相次いで亡くなります。斉彬の江戸出府に同道することになる留学生の出発を見送った吉之助は、胸にぽっかりと穴が空いたようでした。[TAIG](C)NHK
米国のペリー艦隊が江戸に現れ、世情が混乱します。老中・阿部正弘らは対応に苦慮し、騒ぎが治まらないうちに第12代将軍・家慶は世を去ります。斉彬は養女・敬子(すみこ・後の篤姫)を江戸に送り、いよいよ幕政工作に乗り出します。吉之助は妻・俊から妊娠を告げられ江戸行きを断念し、西郷家を支えていこうと心を決めましたが、参勤交代で江戸に上る斉彬のお供に吉之助が選ばれます。[TAIG](C)NHK
西郷家に江戸行きのお祝いの人々が訪れます。しかし送別会に大久保正助の姿はありません。出発の朝、正助からの手紙を読んだ吉之助は一目散に正助の家に走ります。自分だけ先に江戸に行くことになり正助に悪いと思っている吉之助と、そんな心配をさせまいと会うことを避けていた正助。二人の心は通い合い、吉之助は晴れやかな顔で行列に加わりました。江戸では、まもなく日米和親条約が締結されることになっていました。[TAIG](C)NHK
日米和親条約調印の3日後、斉彬と西郷吉之助が江戸入りしました。1か月後、吉之助は庭方役を命じられます。斉彬と直接言葉を交わす立場になり、天にも昇る思いでした。斉彬は吉之助を鍛え、自分の手足になる人材に育てようとします。しかしその斉彬が重体になり、吉之助は高輪不動で一心に全快を祈ります。その頃、薩摩では吉之助の妻・俊が流産して寝込み、正助と弟の吉二郎が江戸に知らせるべきかどうか思案していました。[TAIG](C)NHK